医師 高村幹斎
高村幹斎享和2(1802)年生 嘉永3(1850)年没
高村悠斎の三男高村貞は、享和2(1802)年江井浦にて生まれ幹斉と号した。
少年時代は、播州赤穂に遊学して儒籍を学び、青年時代には医術修業のため、九州熊本の藩医村井琴山の門で内科を、長崎の蘭法医吉雄如渕に外科を学んだ。
高野山、兵庫、京都、大阪と転じて、郷里江井に帰り在住、数年にして洲本に居住することとなり、親友の村上文庵とともに「種痘法」の普及に努めた。
まず、自分の家族に実施する等して信用を高めて、一般の人々に広め、淡路島から天然痘を撲滅した淡路最初の種痘医である。
幹斎と文庵は、種痘を多くの人に受けさせる為に、人形浄瑠璃を只で見せると言って芝居小屋に集めバタリと閉め、全員に実施したという話が伝えられている。
文庵は、後に幹斎の次男俊平を養子とした。
俊平は、大阪医学校(現大阪大学医学部)で阿蘭陀人エレメンテス博士に学び、明治維新後行われた医法で13番目の医師として登録され洲本で開業した。
幹斉はまた易学、植物学に詳しく詩文にも優れていた。
「奇談新編」と「扁鵲志志」を大阪、京都、江戸で出版している。
近年、漢文体の江戸文学研究の対象となり、当時の文化風俗を知る貴重な文献となっている。
嘉永3(1805)年享年49歳にして死没したが、墓碑は父悠斎の隣に「幹斉高村先生墓」と銘し、現存している。
墓石右側碑文漢文体の翻訳文は以下の通り。
「先生の諱(いなみ)は貞、字は士固、幹斉と号す。淡路江井浦の人にして、其の先は、別所長治数世の祖より出で、故ありて姓を高村と更たむ。
考(亡父の意)の諱は謙光、字は周平、其の郷において医をなし、世にいわゆる心学なるものを攻(おさ)む。先生幼にして慧敏、成童の時 書を赤穂に読み、長じて西遊し、内科を肥後(熊本)の村井氏に、外科を長崎の吉雄氏に受く。
既にして高野山に登り一寺に寓す。治を求むる者すこぶる多し。而して山徒にして詩文を作る者は就いて正を乞う。去って兵庫に適き、又京師(京都)及び大阪に適く。
当世の高儒、猪飼敬所、藤沢東骸(がい)、並んで其の善く文を属することを推す。適たま父の憂いにあたり、郷里におること数年にして、将にまた、京師に如かんとし、装を具して洲本に出でした。
親故之をとゞむ。因って一廛(いってん)を?して居り、妾を蓄えて2男1女を挙ぐ。人と為り、豪爽にして間易し小節に抱せず。是を以て技甚だ嘗(うれ)ず。而して其の門人を遇するや厳にして恩あり。
嘉永3年9月5日を以て卒す。享年40有9なり。城西の専福寺に葬る。児女皆幼なる故に親戚義故商議して建碑す。
先生周易を好み、専ら本草に精しく、著すところの扁鶴志志既に世に行わる。卒するの前年、引痘苗始めて来りしも世医甚ぐ信用せず。先生之を得て大いに喜び、同志数人と結社Lて之を施す。
州人にして引痘苗を知るは先生の首唱なり。銘に日く、鳴呼先生、骨や朽すと錐も赤功の成るを保す。」
門人 紀伊 片山元方 謹撰
長男高村庄吉が志筑町に転居し、元汽船場筋にて旅館兼料亭「一楽亭」を経営していた時に、洲本町専福寺墓地より移転したものである。
高村家は庄吉養子春吉(志筑町役場助役)より、長男忠之その長男和豊・次男英之(東京都調布市現住)・三男雅夫に継承している。
追記 高村忠之家のふすまの下張りより、種痘の医学書の断片が発見された。
成錦堂の二代目店主湊節一の妻、弥生は、高村春吉の次女であり、三代目店主湊公男と四代目(現名誉店主)湊格は、五代目店主高村英之と従兄弟となる。
高村幹斎享和2(1802)年生 嘉永3(1850)年没
高村悠斎の三男高村貞は、享和2(1802)年江井浦にて生まれ幹斉と号した。
少年時代は、播州赤穂に遊学して儒籍を学び、青年時代には医術修業のため、九州熊本の藩医村井琴山の門で内科を、長崎の蘭法医吉雄如渕に外科を学んだ。
高野山、兵庫、京都、大阪と転じて、郷里江井に帰り在住、数年にして洲本に居住することとなり、親友の村上文庵とともに「種痘法」の普及に努めた。
まず、自分の家族に実施する等して信用を高めて、一般の人々に広め、淡路島から天然痘を撲滅した淡路最初の種痘医である。
幹斎と文庵は、種痘を多くの人に受けさせる為に、人形浄瑠璃を只で見せると言って芝居小屋に集めバタリと閉め、全員に実施したという話が伝えられている。
文庵は、後に幹斎の次男俊平を養子とした。
俊平は、大阪医学校(現大阪大学医学部)で阿蘭陀人エレメンテス博士に学び、明治維新後行われた医法で13番目の医師として登録され洲本で開業した。
幹斉はまた易学、植物学に詳しく詩文にも優れていた。
「奇談新編」と「扁鵲志志」を大阪、京都、江戸で出版している。
近年、漢文体の江戸文学研究の対象となり、当時の文化風俗を知る貴重な文献となっている。
嘉永3(1805)年享年49歳にして死没したが、墓碑は父悠斎の隣に「幹斉高村先生墓」と銘し、現存している。
墓石右側碑文漢文体の翻訳文は以下の通り。
「先生の諱(いなみ)は貞、字は士固、幹斉と号す。淡路江井浦の人にして、其の先は、別所長治数世の祖より出で、故ありて姓を高村と更たむ。
考(亡父の意)の諱は謙光、字は周平、其の郷において医をなし、世にいわゆる心学なるものを攻(おさ)む。先生幼にして慧敏、成童の時 書を赤穂に読み、長じて西遊し、内科を肥後(熊本)の村井氏に、外科を長崎の吉雄氏に受く。
既にして高野山に登り一寺に寓す。治を求むる者すこぶる多し。而して山徒にして詩文を作る者は就いて正を乞う。去って兵庫に適き、又京師(京都)及び大阪に適く。
当世の高儒、猪飼敬所、藤沢東骸(がい)、並んで其の善く文を属することを推す。適たま父の憂いにあたり、郷里におること数年にして、将にまた、京師に如かんとし、装を具して洲本に出でした。
親故之をとゞむ。因って一廛(いってん)を?して居り、妾を蓄えて2男1女を挙ぐ。人と為り、豪爽にして間易し小節に抱せず。是を以て技甚だ嘗(うれ)ず。而して其の門人を遇するや厳にして恩あり。
嘉永3年9月5日を以て卒す。享年40有9なり。城西の専福寺に葬る。児女皆幼なる故に親戚義故商議して建碑す。
先生周易を好み、専ら本草に精しく、著すところの扁鶴志志既に世に行わる。卒するの前年、引痘苗始めて来りしも世医甚ぐ信用せず。先生之を得て大いに喜び、同志数人と結社Lて之を施す。
州人にして引痘苗を知るは先生の首唱なり。銘に日く、鳴呼先生、骨や朽すと錐も赤功の成るを保す。」
門人 紀伊 片山元方 謹撰
長男高村庄吉が志筑町に転居し、元汽船場筋にて旅館兼料亭「一楽亭」を経営していた時に、洲本町専福寺墓地より移転したものである。
高村家は庄吉養子春吉(志筑町役場助役)より、長男忠之その長男和豊・次男英之(東京都調布市現住)・三男雅夫に継承している。
追記 高村忠之家のふすまの下張りより、種痘の医学書の断片が発見された。
成錦堂の二代目店主湊節一の妻、弥生は、高村春吉の次女であり、三代目店主湊公男と四代目(現名誉店主)湊格は、五代目店主高村英之と従兄弟となる。