成錦堂
石門心学と髙村家について
石門心学は江戸時代中期始めの享保14(1729)年に、神、儒、仏三教を合わせた実践的論理思想を初めて唱えた石田梅巌が京都市車屋町通りに講義を開いたのが始まりです。中国の明時代の陽明学にヒントを得た実践道徳の教義として使用されました。
このページでは石門心学に興味を持ち、学び、その内容を世に広めることに尽力した髙村家の先祖についてお話ししたくおもいます。興味のある方は最後までお付き合いいただければ幸甚に存じます。


○髙村 悠斎(たかむら ゆうさい)
石門心学者 髙村 悠斎 明和2(1765)年生- 天保6(1835)年没
高村家の先祖は、播州三木城主別所小三郎長治の祖父加賀守就治の第二子伝左衛門が、三木城の落城後、弟九右衛門と家来の藤本勝太夫、二宮兵馬を連れ江井浦に渡ってきました。天正13(1585)年ごろのことではないでしょうか。城主にとって伝左衛門は父の弟、叔父ということになります。
文化7(1810)年の江井浦の棟附帳によると高村伝左衛門の子孫は、綱右衛門と言い、江井浦の庄屋を代々勤めてきました。
高村悠斎は、綱右衛門本家の隠居筋にあたる家に明和2(1765)年に一宮町江井浦の庄屋高村伝左衛門支流の家に長男として生まれました。名は謙光、通称は周平といいます。家は船乗りを家業としていました。悠斎は、船乗り仕事よりも学問に打ちこみ、医業を究め、江井浦で医師として開業していました。
享和3(1803)年稲田氏の侍医溝上孝琢の門に籍を連ね、高く評価されていました。その頃、石田梅巌の石門心学が世の人々に高く評価され、広まりつつある時でもありました。
悠斎は、是非この学問を学びたいと梅巌の著書を読み研究をしましたが、それだけには飽き足らず、江井浦で開業していた医業を休み、京都に出て研究に励みます。
石田梅巌は、延享元(1744)年に亡くなっており、その教えは手島堵庵、さらに上河棋水へと教えが受けつがれています。京都に出た悠斎は、上河棋水について学んだのです。
上河棋水は手島堵庵の養子となり上河家を継いでいました。悠斎が京都に出て心学を学んだのは文化の終わり頃、50歳になっていたと思われます。心学の普及に努め、その先は40か国へ及びました。
悠斎は、京都で3年余り納得のいくまで石門心学を研究して郷里に帰り、江井浦に大洋舎という校舎を開きます。
校舎の場所は東の町、現在共同墓地になっている所だと言われています。
敷地内には松が枝を張っており、その奥まった所に講舎があり、大勢の人が詰め掛けてきました。江井近辺だけでなく、遠く三原、洲本、北淡からもその教えを受けにきています。徳島藩も百姓、町人の教化のために領内をまわって講議をするよう大きく奨励していました。
講義の内容は漁業者、農業者、女将さん、子供や商売人など、それぞれに適したものを用意しました。教材として道話、道歌、子守歌、諺のようにしたものや絵を入れて歌留多(カルタ)のようにしたものなど、理解を助けるための工夫がされていました。それが功を奏し、武士階級や学者にも受け入れられました。
こうして石門心学は、淡路に初めて入ってきた学問として大勢の人に受け入れられ、悠斎の石門心学に手間を掛けた情熱には並々ならぬものがあったと言えるでしょう。
天保5(1834)年3月、悠斎が"大洋雑話"という書物を書きあらわします。江戸時代の本ですが、人間としての道を説いたものだからでしょうか、現代人でも共感を持てる内容が多く載っています。内容も問答形式で書かれており、分かり易くする為の工夫が見て取れます。次に一例を挙げます。
問、倹約とけちの違いはどういうことか。
答、倹約も道を外れると人情を失うことも少なくない。倹約することを誤るとけちんぼになる。その程度をよく考え、友達や他人との礼を厚くするように、それは無いのに無理せよというのではない。信実を尽くすことである。倹約は自分が少しずつするもので不時に備えたり、余分があれば世の為人の為に使うこともまた美しい生き方ではないだろうか。
悠斎は、その蘊蓄(うんちく)を傾けて大洋雑話の執筆に着手し、文政元(1818)年に数巻を書き上げ、天保5(1834)年に初編一巻を公刊します。
その頃の悠斎は古希の齢に達していたこともあり、内容の校正や刊行に関わる仕事を三男である髙村貞(後の幹斎)に担当させました。
石門心学を初めて淡路に広めた髙村悠斎は、天保6(1835)年、70歳の天寿を全うします。江井浦にあった墓碑は移転し、淡路市志筑竹林山八幡寺墓地に現存しています(「髙村周平墓」と銘して、その門弟中が建立したものです※濱岡きみ子女史文(「ふるさと一宮」シリーズ22)より)。

○髙村 幹斎(たかむら かんさい)
医師 髙村 幹斎 享和2(1802)年生- 嘉永3(1850)年没
高村悠斎の三男高村貞は、享和2(1802)年に江井浦にて生まれ、幹斉と号しました。少年時代は播州赤穂に遊学して儒籍を学び、青年時代には医術修業のため九州熊本の藩医村井琴山から内科について、長崎の蘭法医吉雄如渕から外科について学びました。
高野山、兵庫、京都、大阪と転じて、郷里の江井に帰り在住、数年して洲本に居住することとなり、親友の村上文庵とともに「種痘法」の普及に努めました。
種痘法を普及させる為に自分の家族から始め、信用を高めてから一般の人々へ広め、淡路島から天然痘を撲滅させた淡路最初の種痘医となります。幹斎と村上文庵は、種痘を多くの人に受けさせる為に、人形浄瑠璃を無料で見せると言って芝居小屋に集め、集まった全員に実施したという話が伝えられています。
後に村上文庵は幹斎の次男髙村俊平を養子とします。 養子となった村上俊平は、大阪医学校(現大阪大学医学部)でオランダ人のエレメンテス博士に学び、明治維新後行われた医制で13番目の医師として登録され、洲本で開業いたしました。
幹斎は、易学、植物学に詳しく、詩文にも優れた才を持っていました。「奇談新編」と「扁鵲志志」を大阪、京都、江戸で出版しています。これらの本は近年、漢文体の江戸文学研究の対象となり、当時の文化風俗を知る貴重な文献となっています。
幹斎は、嘉永3(1805)年に享年49歳にしてこの世を去りましたが、墓碑は父髙村悠斎の隣に「幹斉高村先生墓」と銘し、現存しています。
墓石の右側に彫られた漢文体は以下のように訳すことができます。
先生の諱(いみな)は貞、字は士固、幹斉と号す。淡路江井浦の人にして、其の先は、別所長治数世の祖より出で、故ありて姓を高村と更たむ。
考(亡父の意)の諱は謙光、字は周平、其の郷において医をなし、世にいわゆる心学なるものを攻(おさ)む。先生幼にして慧敏、成童の時書を赤穂に読み、長じて西遊し、内科を肥後(熊本)の村井氏に、外科を長崎の吉雄氏に受く。
既にして高野山に登り一寺に寓す。治を求むる者すこぶる多し。而して山徒にして詩文を作る者は就いて正を乞う。去って兵庫に適き、又京師(京都)及び大阪に適く。
当世の高儒、猪飼敬所、藤沢東骸(がい)、並んで其の善く文を属することを推す。適たま父の憂いにあたり、郷里におること数年にして、将にまた、京師に如かんとし、装を具して洲本に出でした。
親故之をとゞむ。因って一廛(いってん)をして居り、妾を蓄えて2男1女を挙ぐ。人と為り、豪爽にして間易し小節に抱せず。是を以て技甚だ嘗(うれ)ず。而して其の門人を遇するや厳にして恩あり。
嘉永3年9月5日を以て卒す。享年40有9なり。城西の専福寺に葬る。児女皆幼なる故に親戚義故商議して建碑す。
先生周易を好み、専ら本草に精しく、著すところの扁鵲志志既に世に行わる。卒するの前年、引痘苗始めて来りしも世医甚ぐ信用せず。先生之を得て大いに喜び、同志数人と結社して之を施す。
州人にして引痘苗を知るは先生の首唱なり。銘に曰く、鳴呼先生、骨や朽すと錐も赤功の成るを保す。
門人 紀伊 片山元方 謹撰
幹斎の墓石は長男の髙村庄吉が志筑町に転居し、元汽船場筋にて旅館兼料亭「一楽亭」を経営していた時に洲本町専福寺墓地より移転しました。
庄吉は養子として春吉を迎え入れ、髙村家が続いていきます。春吉の長男忠之が住んでいた家の襖の下張から、種痘に関する医学書の断片が発見されたことに先祖のつながりを感じています。
成錦堂 髙村 英之

